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幕六 契約の残響

last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-22 18:31:41

 アラーナ・ノクターンは、沈黙街の住人ではなかった。

 けれどこの街は、彼女にとって最もなじむ“契約の場所”だった。

 声を持たない依頼者たち。

 名前を書かず、署名もせず、ただ一枚の封筒を差し出す。

 中に書かれているのは、短い指示文だけ。

 ──午前三時までに静かにしてほしい。

 ──この通りを通らないようにしてほしい。

 ──あの女が笑えるようにしてほしい。

 誰が、とは書かれていない。

 けれど依頼は確かに届く。

 そしてアラーナは、必ず応える。

「支払いは、済んでいるのよね」

 小さく呟き、封筒を開く。

 そこには、“ルメア銀貨十枚分”の構文印が押されていた。

 声を失った者たちが差し出す、唯一の価値。

 支払いがある限り、依頼は成り立つ。

 感情や動機は、関係がない。

 アラーナは夜の街角に立ち、周囲を見渡す。

 濡れた石畳。

 錆びた看板。

 崩れた壁の下で、酔い潰れた男がひとり、顔を伏せて眠っていた。

 そこに風はなく、時間も流れていない。

 だが彼女は知っている。

 この沈黙の中にこそ、最も正確な“声”があることを。

 それが、仕事の合図になる。

 ゆっくりと歩み出し、刃を抜いた。

 金属の摩擦音が一瞬だけ、闇の中に響く。

 次の瞬間、男の首が落ちた。

 血の匂いはしない。

 影が沈み、路地が元の静けさを取り戻す。

 アラーナは刃を収め、足元に封筒を置いた。

 依頼の完了。

 支払済の証。

 夜風が一度だけ、彼女の頬を撫でた。

 その冷たさが、世界の温度を確かめる唯一の方法だった。

「……次」

 言葉ではなく、呼吸の形。

 その微かな息が、空気の層をわずかに揺らす。

 路地の向こうで、猫が走り抜ける。

 窓辺のカーテンが静かに閉じられる。

 沈黙街の夜は、彼女の仕事を拒まない。

 それは祈りでも、赦しでもない。

 ただ、必要とされているという事実だけがあった。

 アラーナはもう一枚の封筒を取り出す。

 新しい依頼。

 内容は読まずとも、結果は知っている。

 “静かにしてほしい”――この街では、すべての依頼が同じ内容。

 歩みが再び始まる。

 足音が路地に重なり、やがて遠ざかっていく。

 その足音を、誰も追わない。

 追う理由も、追われる理由もない。

 ただ、ひとつの結果だけが、翌朝の街に残る。

 封筒の山。

 印の押された構文。

 誰の名も記されていない契約の残響が、今日もこの街を満たしていく。

(つづく)

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